Schrödinger's dawn

スティブナイト
「あの大男が指示したのかな」
スティブナイト
「ほら、聞こえない? 羽の音」
ササナ
「………ん」
ササナはそれを聞いてベッドから身を起こす。
ササナ
外の音を聞こうと耳を澄ますが、特に音は聞こえてこない。
ササナ
「………ぁ」
しばらくの沈黙の後、ようやく音が聞こえたのかササナの体が反応する。
ササナ
物資はすでに昨日届けてもらっている。さすがにこうも短時間で次が来るとも思えない。
なら考えられるのは…、とぼんやりとした頭で考える。
ササナ
大丈夫かな…、とこぼす。
それが誰に、何に対してなのかはわからない。
スティブナイト
「…………」
スティブナイト
溜息をひとつ。
スティブナイト
ベッドサイドに置いていたマントを掴む。
スティブナイト
「まぁ、うん」
スティブナイト
「効率的だよね」
スティブナイト
それを羽織りながら、身を起こす。
スティブナイト
…………昼のこの女が、
スティブナイト
大男に暴力を振るわれて怯えていたのを思い出す。
スティブナイト
今の状態でこの女を刺激したくはないが、
スティブナイト
「……時間がないな……」
スティブナイト
ぽつり、呟く。
スティブナイト
「今」
スティブナイト
「ここから出て行けって言ったら……」
スティブナイト
「…………」
ササナ
「………」
少しの沈黙
ササナ
「…出て行く」
ササナ
「そもそも、休ませてもらえるとは思っていなかったし…」
スティブナイト
「……いや」
スティブナイト
「アレがお前らだけ狙わないようにする理性もないか」
スティブナイト
もう一度深く溜息をついた。
スティブナイト
「…………」
ササナ
「…自分の身を自分で守るくらいは、できるよ」
とはいえ、今の疵状況からまともに力が使えるかは定かではないし…絶望したこの状態では死ぬことをなんとも思っていないことは確かだ。
ササナ
「…私が、ここにいてはいけない理由は」
小さく、消え入りそうな声で続ける。
ササナ
「私に、余計な影響が出ないようにするため?」
スティブナイト
「……まぁ、そんなとこ?」
スティブナイト
行為中、ずっと気にしていた。
スティブナイト
傷つけないように。何か刺激をしてしまわないように。
スティブナイト
指先が触れるたび、気にする素振りを見せていた。
ササナ
「………」
気のせいかもしれないけれど、ササナにもそれは伝わっていた。
ササナ
それが、"ササナ自身のため"ではないことも…うっすらと理解していた。
ササナ
だからササナも、"そのように"応じる。
ササナ
あなたの体に、少し身を寄せて…マントを握っている手に指を重ねる。
ササナ
「…多分、平気」
スティブナイト
「…………」
スティブナイト
「ほんとかなあ」
スティブナイト
「まあ、でも、三月兎よりマシかもね」
スティブナイト
結晶がなかったらたかが知れてるからね、なんて言って、笑った。
スティブナイト
実際本当に力がなかったのは、よく知っているだろう。
スティブナイト
抵抗ひとつ、ろくにできない。
スティブナイト
そもそも、していたかもわからないけど。
スティブナイト
触れる手は柔らかく、押し倒すことひとつできず、掴まれればほどけない。
スティブナイト
それくらいの力。
スティブナイト
ただ黒い爪だけが、毒を持っている。
スティブナイト
「…………」
スティブナイト
「離れてたほうがいい」
ササナ
「じゃあ、そう命じて」
ササナはあなたに触れたまま、もう片方の手で胸の黒結晶を指し示す。
ササナ
黒結晶のないあなたの力は、確かにか弱いものであったが…
それだけで身を預けたりはしない。
ササナ
あなたの指に、爪に自分の指を重ねる。
そこに毒があろうと構うことなく、むしろその毒で私を蝕んでと言わんばかりに。
ササナ
「私は、出て行けと言われればそれに従うし…。ここで何か起こったとしても、多分平気」
ササナ
「…ダメだったら、手握って」
そう言ってあなたに触れる指に力がこもる。
スティブナイト
「…………」
スティブナイト
「……ばかなやつ……」
ササナ
「…そうかも、何も考えてないからね」
ふふ、と諦観の笑みがこぼれる。
ササナ
「だからまた、一緒に考えてほしいな」
スティブナイト
「…………三月兎よりマシだけど」
スティブナイト
「痛いもんは痛いだろ……」
スティブナイト
「嫌なんだろ、痛いの」
ササナ
「うん」
ササナ
「でも、一人でそれを耐えるよりは二人の方がきっとマシ。それがあなたでも」
スティブナイト
「…………」
ササナ
「それに、こんなにしといて今更じゃないかな…?」
自分の胸の結晶を見る。
スティブナイト
「そうなってるから……」
スティブナイト
「……いや」
スティブナイト
「もういいや……」
スティブナイト
羽の音がする。
スティブナイト
この森の全域にグリフォンの末裔がいるのがわかる。
スティブナイト
「……もうすぐだ」
スティブナイト
もう間もなく、三月兎が投下されるだろう。
ササナ
「ん」
手を繋いだまま、ベッドに寝転ぶ。
ササナ
「………目、瞑っておいた方がいい?」
スティブナイト
「好きにしろ」
スティブナイト
「どうせ構えなくなる」
ササナ
「…そう?」
見られたくないのかな、とも思ったのだが…好きにしていいのなら目は開けておこう。
スティブナイト
少しの沈黙があって。
スティブナイト
小屋の外から、硝子が割れるような音。
スティブナイト
と、同時に。
スティブナイト
びくりと身が跳ねた。
スティブナイト
「っ、」
ササナ
同じタイミングで、ササナの肩もぴくりと震える。
スティブナイト
この森の全てがわかるということは。
スティブナイト
この森が傷付けられたとき、それが感覚でわかるということで。
スティブナイト
だから、
スティブナイト
「っ、ぐ…………」
スティブナイト
縮こまって、手に力を入れて、その痛みに耐えるしかない。
ササナ
「………ん」
ササナ
胸に結晶を埋め込まれたササナにも、その痛みはわずかに伝わる。
もちろん、その結晶の持ち主ほどではないが…。
ササナ
痛みが始まったと同時に、握っていたあなたの手に少しだけ力をこめる。
スティブナイト
その手は冷たく、汗ばんでいる。
スティブナイト
手に視線を向けて、けれど言葉が発されることはなく、
スティブナイト
あらく息を吐いて、浅く呼吸をして、
スティブナイト
その小さな音は外の破壊音にかき消される。
ササナ
小さくなっていくその背中にもう片方の手を置いて、目を瞑る。
ササナ
好きにしろ、とは言われたが見られたいものでもないだろうと勝手に判断して目を閉じる。
スティブナイト
「っ、う、…………っ、」
スティブナイト
手を握る。
スティブナイト
その手は震えている。
スティブナイト
破壊音は強まって、遠くで亡者の遠吠えが聞こえた。
スティブナイト
痛い。
スティブナイト
けど、まあ、報いなのだろうな、とどこかで思う。
スティブナイト
こうされても仕方がない。
スティブナイト
そりゃあね、と心のなかで笑う。
スティブナイト
だからといってこうしないで生きることはできなかった。
ササナ
その震えた手に対して、今のササナが何か行動を起こすことはない。
やっているのは、手を離さないでいる程度のことくらいだ。
ササナ
そもそも、絶望する前のササナであっても…何かできることがあったかと聞かれても即答することはできなかっただろう。
ササナ
だから、ササナは何も言わずに…。
ササナ
握られた手に対して握り返し、ただこの場にいるだけだ。
スティブナイト
自立の先にあるのは、孤独。
スティブナイト
何も、
スティブナイト
何も変わらない。
スティブナイト
この痛みがどうにかなるわけでもなければ、自分を狙って傷付ける救世主がいなくなるわけでもない。
スティブナイト
結局誰も頼れないし、だから、こうやって強くなるしかなかった。
スティブナイト
「……っ、」
スティブナイト
痛い、と声に出すこともしない。
スティブナイト
声に出したところで、何の意味もない。
スティブナイト
雫が頬を伝って垂れた。
スティブナイト
この透明な雫に、意味なんてないのに。
ササナ
結局、遅すぎたのだ。
もう少し早く、違う出会い方をしていたならば、何かが変わったのかもしれないが。
ササナ
今この場に、あなたの傷を癒し、あなたの疵を舐められる者はいない。
ササナ
胸に結晶を埋め込まれたササナには、それがよくわかる。
ササナ
こうして、あなたの体に身を寄せても…
あなたの頬を伝う雫を掬おうとも…
ササナ
きっと、あなたの疵には触れることすらできないのだと…
ササナ
理解はしている。
だから、この行動に意味なんてない。
ササナ
ただ、小さな痛みがずきずきと胸を傷付ける。
スティブナイト
変われないところまで来てしまった。
スティブナイト
もうどこにも戻れなかった。
スティブナイト
どこへ行くこともできなかったし、
スティブナイト
今更誰かに頼ることだって。
スティブナイト
できないようになっていた。
スティブナイト
救世主を殺し、末裔を殺し、そうして「あなたがた」の驚異となったものの末路。
スティブナイト
抉られることしかできない。
スティブナイト
どこも地獄だって、気付いてしまっている。
スティブナイト
誰も彼もが愚かだと、わかってしまっている。
スティブナイト
救いなんてない。希望なんてない。
スティブナイト
縋れるものなど。なにも。
スティブナイト
じゃあ、その手を握ったのはどうして?
スティブナイト
わからないままに。
ササナ
何も考えずにここまで来てしまった。
ササナ
戻りたい場所なんてなかった。
ササナ
どこへ行くにもあの二人のあとをついていっていた。
ササナ
そんな私が、誰かに頼られようだなんて…。
ササナ
きっと、無理な話だったのだろう。
ササナ
誰かを、何かを救うためと…自分を騙して裁判を繰り返してきた。
ササナ
今更、誰かを救おうだなんて都合が良すぎると…胸の穴がずきずきと痛みを発する。
ササナ
この地獄に、救いが…希望があるんだと。
自信を持って言えるほど、私にだって縋れるものは…本当はないのかもしれない。
ササナ
じゃあ、その手を握ったのはどうして?
ササナ
それは、でも。
ササナ
きっと、いつか私ではない誰かがあなたを変えてくれるかもしれないと…、淡い期待がどこかにあるからで。
ササナ
なら、今私にできることは…あなたがここで崩れ消えてしまわないように手を握っておくくらいだ。
ササナ
…などと、本当に思っているかもわからないことを考えている自分が、ひどく憐れに思えてならない。
ササナ
笑みをこぼして、握る手に力を込めて、私はまた考えることをやめた。
スティブナイト
ここに垂れる蜘蛛の糸はない。
スティブナイト
蜘蛛の糸を手繰ったとして、手繰っているその最中、極楽の夢を見ることなどできはしない。
スティブナイト
思考の果てにあるのは絶望だ。
スティブナイト
繋いだ手をほどいて、
スティブナイト
ベッドに倒れて、腕をつかんで引き寄せて、
スティブナイト
手を伸ばす。
スティブナイト
明確に誘う意図を持って。
スティブナイト
何も考えられなくさせてほしかった。
スティブナイト
痛みも、苦しみも、全部。
スティブナイト
浅く早い呼吸音。潤んだ瞳。
ササナ
それに抵抗をすることはない。
何も考えられなくなりたいのは、自分だって同じだったのだから。
ササナ
伸ばされた手に、自分の手を重ねて、絡ませて、引き寄せる。
ササナ
お互いの呼吸が混ざり、瞳は見つめ合うことで溶けてしまいそうな距離。
ササナ
言葉もないまま唇は重なり、思考を放棄する交わりが生まれる。
ササナ
「んっ…、は、ぁ…」
痛みと、息苦しさによる吐息が部屋に響く。
スティブナイト
「ん、ぅ、……っ、」
スティブナイト
頭に酸素が回らなくなって、痛みと快楽がめちゃくちゃにしていく。
スティブナイト
これが意図通りで、
スティブナイト
蜘蛛の糸なんかどこにもないから、
スティブナイト
だから、
スティブナイト
目を閉じて、溺れる。
スティブナイト
そこが血の池地獄でも。
ササナ
ここから、あなたを救い出すことができないのなら…いっそこのまま一緒に堕ちてしまえれば…。
なんて思っても、きっとあなたはそれすらも許してはくれないのだろう。
ササナ
ダメだ、まだ考えてしまう。
これじゃあきっと、あなたもそうでしょう?
ササナ
だからもっと深く、もっと暗いところまで溺れられるように…
ササナ
唇と唇を重ねて、口から漏れた声で耳を満たして、肌と肌の熱を溶け合わせて…
ササナ
それでもきっと、あなたは溺れ溶け切ることなく…戻っていってしまうのだろう。思考の果ての、絶望へと。
ササナ
そうして溶けて、消えるのは…きっと本当に何も考えていない私だけ。
スティブナイト
逃れようとしても、絶望はすぐに迫ってくる。
スティブナイト
囚われ続けている。
スティブナイト
それが心の疵。
スティブナイト
それが抉れていくさまが、薄暗い部屋の中、絶望の結晶に照らされている。
ササナ
暗い森の中で、二つの絶望が混ざり溶け合おうとする。
ササナ
けれど結局、絶望は互いを理解することはできず…
ササナ
ただ無意味に、底の底まで堕ちていくだけ。
スティブナイト
痛い。辛い。苦しい。
スティブナイト
どんなに麻痺させようとしても、だめだった。
スティブナイト
救われない。
スティブナイト
救うこともない。
スティブナイト
風に揺れることがなくて、死んだように横たわる、この森の木々のよう。
スティブナイト
破壊音はまだ止まない。
スティブナイト
ここは地獄だ。
スティブナイト
この世界に希望はない。
スティブナイト
それは、誰よりも。
スティブナイト
自分がよく知っていた。