まず、ネが感じたのは、ぬるい風だった。
生気のない、空気のゆらめき。その緩やかな流れに乗って、鼻をさすような、汚物の臭いがする。発酵した、なんらかの、生き物の。
嗅ぎ慣れた臭い。
「兄様?」
くちびるを開くと、臭いが喉元になだれ込んできた。
足裏に感じる下草は、枯れて、湿って、粘ついている。
瞬きをしても変わらない色。暗闇をこぼしたような世界の中で、目を凝らした。何を見るべきかもわからないまま、眉間に皺をよせて。
体をこわばらせ、様子をうかがっていると、
しだいに黒一面だった視界が、わずかにグラデーションがかって見えてきた。
「兄様」
と、もう一度、ネは呼んだ。自分の声だけが、やけに響いた。
彼女の世界、その理解の範疇にないすべてのものは、兄の手によって持ち込まれてきた。
あの微笑みを音のおわりに感じる、やわらかい声と共に。
……応える人はいない。
重たく広がった雲を、黒く染まった木々がへし折れそうな形で支えている。
枝それぞれが奇妙な方向に曲がりくねり、重なり、微かにしなる音は、呻き声に似ている。
風が吹く。先程よりも、わずかに強く、そして、乾いている。砂粒が頬へ跳ねる。
刹那。
暗闇の中、視界の端に、鮮烈に、なにかが映ったのを、ネは見た。
この空間のとらえどころが、焦点が、無理やりに設定されたような、感覚。
薄い、紐のようなものが地面に落ちていた。
ときおり風につままれ、ちらちら、転げるように動く。
そこだけが切り取られたように赤く、
光っているというより、ぬるついているような見え方だった。
その見た目で、地面に張り付く様子もなく、ただ風に晒されるさまは、
ひどく、ネのこころをざわつかせた。内臓に指をひとつずつ差し込み、素手でかき混ぜて、爪を立てて、引っ掻かれるような、おぞましい気持ち。
また風が吹く、紐が揺れる──
血の気の無い、白い指先を、彼女は伸ばす。
紐の悼ましい赤が、浮かび上がるような色だというのに、赤へ伸ばす彼女の指先は、闇へ向かって沈んでいく。わずかに震えながら、細かな泡を残して、深く、深く、沼の底に向かう。今、その底を触れようとしている。
かさり。
紐は温度もなく、とても乾いていた。つまみあげる際、薄くとがった草が指先をかすめた。その草のなまめかしい、氷のような冷たさが、今手の中にあるものとくらべると、嘘のように思えた。現実味がない。というのに、それはよく知っている形と厚みをしている。幅広く、軽く、しかし質量がある。
包帯だ。目を灼く赤をのぞけば、ネが普段使っている、それそのものだ。
ネは包帯を手繰ってみた。手繰っても手繰っても、手の中に丸まったそれが増えていくだけで、終わりがない。それでも手繰り続ける。風が吹くと、あのひどい臭いがより強くなる。生理的な涙で視界がぼやけても、赤色は褪せることはない。すぐに手繰った包帯は手からあふれ、はらはらと地面に落ち、ゆっくり重なった。砂が下に落ちるような、わかりやすい堆積ではない。より動物めいていて、予測のできない沈みかたをする。
スルスルと、枯れ草やむきだしの地面を滑るちいさな音が、しばらくの間つづいて、ふいに、音が変わった。
手応え。地面に落ちたままだった手元の包帯が、ゆるく浮かぶ。そのまま何度か手繰ると、ネの包帯を掴む手をはじまりとして、たわみながらも、平行を保って宙に留まった。張った包帯の先は、闇の中に消えている。
ネはその先を見つめて、立ち竦んでいた。それは恐れだった。
怯え、弱ったいきもののように、縮こまり、警戒していた。
もうずっと、孤独を覚えて生きてきたけれど、ここまで寄る辺のない気持ちになるのは、はじめてだった。
しかし、風は吹く。ひどい臭いと共に。
たわむ包帯が、ひらひらと揺れる。持っていかれるほど、強い風ではなかった。それでも、ネは必死に包帯を掴んだ。てのひらに汗が滲んでも、赤色が沈むことはなかった。
息を吐いた。こんなにも冷たい場所なのに、息は白くならない。
暖かくも寒くもなく、ただ、這い登る冷気がある。身のうちや、草木が宿す冷たさが、この空間の一帯に漂っている。
唾液を飲み下した。喉が締まって、息苦しさを覚えた。そして、踏み出す。
下草は枯れて、棘のようになって、ネの裸足の足裏を刺す。その痛みに手を引かれて、
もう、立ち止まることはできなかった。ネは赤い包帯の先を辿って、ひたすら歩いていった。
ネの作り出す音以外、時折思い出したように吹く風をのぞいては、その森は、死んだように静まりかえっていた。臭いは進むにつれて、更にひどくなっていき、ネはときおり立ち止まって、えづいた。予兆というには確実すぎる不穏さだった。
それでも歩み続ける。足先が、麻痺しそうなほど冷えはじめていても。
しばらくすると、風とネの歩み、包帯の揺れる中に、ぶうん、という音が加わった。
ハエが飛び交っていた。暗闇でよく見えないが、大きくて、おそらく、二匹以上はいる。ときおり耳や、顔をかすめて飛んでいく。
気を取られ……何かに躓く。やわらかくて、弾力がなく、乾いている。
ネの足に蹴られ、手前に転がり、停止する。それはほぼ、予想通りのものだった。
古くなった、人の手の一部。中指から小指、それと手首から先を喪失した、灰色の肉のかけら。
うろたえることはなかった。
落としていた視線を包帯の先に向けて、
「兄様」
と、また、つぶやいた。
やはり、返事はなかった。
ハエと古い死体の数は、進むにつれて増えていった。
なにか、生活の営みが感じられるあとも増えた。しかし、すべてがへし折られ、砕け散っている。
落ちている死体は、ちぎれたパーツの欠片から、次第に、人間のかたちを意識できるものに変わっていた。
酸化した血や、青ざめた肌の色に慣れているネであっても、これほどの数の死体は、見たことがなかった。
大きいものもあった。小さいものもあった。みな、一様に腐り、どろどろに溶けて、ほぼ骨と化していた。
このひどい臭いは、どちらかというと、死体そのものよりも、地面に染み込んだ腐汁なのではないかと、ネは思った。それほど、折り重なるように、死んでいる。
ネは何度も、死体を蹴り、踏み越えた。なんでもない草地でも、足裏に、気持ちの悪い感触があった。それでも赤い包帯を辿ることをやめなかった。悪夢の中で、致命的な展開を、かわすことができないように。
死体の中には、顔や頭があるものもあった。あった、というだけで、顔のつくりや表情を判別することはとても難しかった。
ただ、青緑や紫の髪だけが、妙に鮮やかに散らばっている。
これはすべて兄様がやったのだろうか、とネは思った。三度呼びかけて、返事がなくとも、
兄がこの不可思議な状況に関わっているのではないか、という希望を捨てることができない。この赤を辿っていけば、あのやわらかい声で、名前を呼んでもらえるのではないか、と。
それが、この場所にただよう死と恐怖と蹂躙の影の中で、ネの芯に火を灯していた。
たわんでいた包帯が、ゆるやかに張って、やがてピンと伸びる。
地面と平行を保っていたのに、今は地の一点に向けて、線を引いている。
包帯から手を離すと、その直線は見る間に失われて、落ちて、まわりの死体と同様に、律するものを失った。
その先に、兄の姿はなかった。
あのやわらかい声もなかった。
芯の灯火が失われても、落胆らしい落胆をするには、ネには欠落が多すぎる。
開けた場所なのに、先程まで吹いていた風が、ぱたりと止んで、いよいよ、痛いくらいの静寂さに包まれた。逃げ場が無いな、とネは思う。この場所を襲った恐ろしい何かは、もう過ぎ去って、彼女は過去の堆積を、なぞって眺めているだけなのに、そう感じる。
逃げ場を失わせているのは、ネ自身だ。
そこにあるものは、死体だった。大人の、男の。
ほかのものよりも、はっきりとした形をしていて、だから、
それ以外の死体は、どこかぼやけて見えた。
長く、艶のない黒髪を垂らして、腹をかばうように、横たわっていた。
そのしまいこんだ腕の中に、赤い包帯がつながっている。
ちょうど、腹の中にいる、胎児のような形で。
ネは屈んだ。もう少し、よく見たい、と思った。その気持ちは、ここへ降り立った直後、暗闇に慣れるまでじっと目を凝らし続けていた時と同じ、注意深く、温度のない感情だった。血の気のない顔、閉じた瞼。そのまつげに、心臓を掴まれた。相手は死体で、ネはそれを観察しているだけなのに、寝台をともにして、表情をのぞき見てしまった時の、なまなましい感覚がした。感情が温度を伴う。──触りたい。温度を無視できない。
肋骨が狭まる。喉元が迫り上がる。鳥肌が立つ。首の後ろがざわついて、感覚が張り詰める。
唇を引き結んだ。呼吸を忘れて、その瞼をなぞろうと、した。
*
今もあの時と同じように、横顔を見つめている。
こうして隣同士、横たわっていると、どちらも死に、命を絶やして、あの森の中に転がっているような、そういう場面を夢想する。粗末な、借り物の寝台の上は、固く、冷たい。
暖かくはない。死体と共寝をして、ぬくもりを感じることはない。こんなに近くにいるのに、体温も呼吸も伝わらない。僕だけが息を吸って吐く。孤独を孕んだ薄皮を、爪先でつつくような夜は、お前と出会ったあの日から、途切れたことはない。
唇を引き結んで、その瞼へ指を向ける。触れるか、触れないかの前に、アルビーは目を開ける。
鈍い金色。腐り落ちそうな夜に似合いの、月の色。
僕に合わせてくれているだけで、お前は眠ったりしないことに、僕は気付いている。その優しさは、居心地が悪い。僕が気付いたうえで、知らないふうに振る舞っていることに、アルビーは気付いている。だから、その目を見つめていると、ざわざわしてくる。
アルビーの目尻を撫でた。濡れてすらいなかった。ただ冷たかった。アルビーは身じろぎも、瞬きもしない。たぶん、このまま、その目をくり抜いても、悲鳴ひとつ上げやしない。
いつか、僕は、そうしてしまう気がする。
そしてそれでも、終着できるわけじゃない。
終わりのない道筋。闇のむこうへと繋がる赤を辿り続ける。
僕は怯えている。お前に出会ったあの日から、ずっと。
* * * * *
誰がクック・ロビンを殺したの?
どうして 誰が どのように どこで 何が起こったの?
そして それから。
誰がそこにいたの。
死がその心臓に振り下ろされるとき、生は生の役目を失う。
筋肉は弛緩し、血管は動きを止め、体表は熱をもたず、肉が肉として地に落ちる。
──その現象があたりいっぺんに起きたらどうなるのだろうか?
誰にも見られることのない死があたりを包み込んで、男はその最中に死んだ。
その日の朝、男は何年かぶりの日の光を見た。
厚い雲に覆われた堕落の国の空はほとんど日の光が昇ることはない。
精確には、あっても見えない、だ。
いいや、もっと精確に言うなら頭上にはあるが、僕たちには見ることができない、だ。
いやいや、いやいや。
自然と頭の中で再生される、この集落での対話。
水パイプの煙に満たされたここではそんなことばかりが取り沙汰される。
一度迎え入れられれば暮らすのに困らない場所だ。
ここには怠惰からなる安寧と、探求と自立心に溢れている素晴らしい土地だ。
日がな一日堕落の国の、堕落の国たる所以を余すことなく満喫している。
煙と霞とほんの少しのキノコを食べて。
堕落の国が堕落の国になる前からここはそうだったに違いない。
永遠に横たわるものを眺めて暮らすことは、男の生まれでは許されないことだった。
だから男はここに来た。
教訓はすべてここの迂遠な言葉に辿り着くのだろう。
その日々だけが、男の出自の疵を癒やしていた。
今日、このあと、この夜。
その瞬間まで。
その亡者はまず、村の入り口の方から始めた。
瞬きの間に血肉が飛び、瞬きの間に骨が弾け、瞬きの間に誰も彼もが死ぬ。
この村には規則というものはない。
皆好きずきに暮らしていて、年寄りが外壁を固めるというような合理性もない。
第一そうしたところで、意味はない。
我々は常に死が眼前に迫っている。
今もそれは亡者の形をしてこの村を蹂躙している。
なんて挑みがいのある命題なのだろう。
キノコのあちら側とこちら側。
死とは、生とは。
ただ、それを理解する前に自分は死ぬのだ。
亡者がすぐそばにいる。
呼吸を嗅ぎつけて、まだ息のあるものを探している。
男は口を開いた。それは、呼吸?
いいえ。まだ思考の半ば、言葉が言葉になる前。
人生をかけて考えたことは形にはならなかったのに、口をついて出た言葉はおそらく真実だった。
母さん。
それが真実であると何故自分はわかったのだろう。
誰もそれを理解してはくれない。
観測してはくれない。
話し合ってもくれない。
この村にはもう誰もいない。
夢を見ていた。
あの甘くぬるい、恐るべきまどろみを言葉にするなら。
それは、夢だった。
ハッシャ・バイ・ベイビー アリスの膝で。
くすんだ銀のスプーンが、白いミルクをひとさじ。
公爵家に贈られた小さな祝福が、自分にも確かに注がれたはずなのに。
乳は、実のところ血と同じものらしい。
恐るべきことに、おおむねの生き物はそれを飲んで生きているそうだ。
あの赤の女王でさえ、ニヤニヤ笑いのチェシャ猫でさえ。
おれはそれがたまらなく怖かったんだな。
赤と白のうねりが、視界のはしで溶けて消える。
腹の奥底を手繰られる感覚がある。
夢の続き。そこには誰がいた?
瞬き。
自身のまつげが血をはらう。
血?
もうそこにないはずの血肉がひとつひとつ、繋がって輪郭を繋ぐ。
この死を観測した者がそこにいる。
ぼやけた男の視界が白い少女を捉えた。
アリス
救世主に会ったら言おうと思っていた言葉がある。
「お前は誰だ?」
あの時以来、二度と「お前」と呼んでいないことだけがふたりを繋いでいる。
あの時男は死んでいて、少女はそれを見た。
男は死体で、少女はそれを弄ることができた。
それだけ。それだけ。
知らないだろう。
おれは夢をみるんだ。死体がなぜ瞬きをするのか、考えたことはある?
考えなくていいよ。今はまだ。
寝床の半分、無遠慮にも占有する肉がここにあるだけさ。